ライフデザイン・カバヤ株式会社
取締役社長
窪田健太郎
くぼた けんたろう
Profile
ライフデザイン・カバヤ株式会社 窪田健太郎さん
1962年生まれ、岡山県出身。
1992年ゼネコン会社を経て、ライフデザイン・カバヤへ入社。
設計や営業業務に従事し、2004年に取締役就任。
2015年よりトップとして社内の構造改革を担っており、2020年8月からは取締役社長としてその手腕を振るっている。
住宅を扱う会社から木造ゼネコンまで、CLT建築を含む“木”で囲まれた街づくりを目指し、日本の風景を変えていきたいと願っている。
営業戦略の立て方やフレームワークを皆さんに共有し、さらに、不動産業界やビルダーというものの魅力をお伝えするため、私どもは【エグゼクティブビジョン】という指針を掲げました。
そのビジョンを伝えるべく、取締役社長 である窪田健太郎(くぼたけんたろう・ライフデザイン・カバヤ株式会社)さんに、乃村(株式会社マイホム代表取締役CEO)からインタビューさせていただきました。
窪田さんよりお聞きした、『変化を恐れない姿勢』『朝起きたら行きたくなるような会社』を、前後編に分けてお届けいたします。
今回は前編です。
まずは、簡単に自己紹介をお願いいたします。
窪田さん 窪田健太郎です。よろしくお願いします。私は小学校の頃は足が速くそれなりに輝いていたのですが、中学校に進学したあたりから背が伸びなくなり、中3では同級生の中で一番身長が小さく、体が大きくならないので自慢の俊足も目立たなくなってきたんですね。さらに学校の成績も芳しくなく、友達も少なく、根暗な中学生活を送っていました。そういう中で高校の進路を考えたときに行ける高校が将来身体を使ってお金を稼ぐことしか考えられず、工業高校の建築科へ進学しました。
高校に入っても成績は下から数えた方が早く何も変わらない状態でした。ただ夏休みの頃から家にこもっているので何もすることが無く、おじさんの置いて行った大量の書物をむさぼるように読むようになりました。歴史・経済・宗教・推理小説など、あらゆるジャンルの本があり、考え方が変わっていったんです。身長もなぜか高校になってどんどん伸びていって年間 10cm 単位で伸びていきました。2 学期からは成績がぐいぐい伸びていき、建築科でトップになりました。その時から軸となる考え方として「壁にぶつかったら苦しい方を選ぶ」ようになったんです。学級委員長に立候補したり、部活動でもリーダーとして動くようになりました。そういう中で大工さんになるというよりも、もう少し深く勉強したいと考え、工業大学の建築科へ進学していきました。
大学では、「喧嘩に強くなる」をテーマにして 4 年間を過ごしました。少林寺拳法部に入部し、3 年時には全国大会で 3 位になるほどのめり込んでいきました。卒業して東京のゼネコンで現場監督として働き始めました。読書は引き続き習慣の中心にあって、日本電産の永守さんの考え方に影響を受け、24 歳の時に将来目標を 40 歳で会社を興すことにしました。30 歳までに一級建築士を取り、地元岡山に帰り、10 年間で人脈と資金をためる計画でした。岡山でこの会社へインターン就職し、設計、営業を経験しました。予定通り 40 歳になった時に辞めることを当時の社長に伝えたら、役員にするから将来この会社の社長になってくれと言われたんですね。その社長はその後亡くなったのですが、私はこの会社で、結果この地位になり、現在奮闘しているのが私の経歴となります。
そのご経験の中で、今の窪田社長にとって、大きな学びになったのは何でしょうか?
窪田さん 20 代で現場監督を経験し、30 歳から設計として家のデザインに係っていき、35 歳から営業としてトップセールスになっていったように、現場・デザイン・営業を経験できたことが一番の収穫です。今、何が一番向いていますかというと、どの職種もその時は向いていると思っていたし、好きでした。そういう中で、その後 40 歳から事業部のトップになった時に、今までの経験が役に立つことになりました。事業部のトップになった時から全国のあらゆる会社を訪問し、社長の考え方や経営手法を学んでいったんです。チャレンジすることの重要性や、変化を恐れない姿勢など経営のノウハウや人脈ができたのがよかったですね。
昔、乃村さんがシリコンバレーに行って創業に繋げていった話は今でも鮮明に残っていて、この人はおもろい人やなぁと感じ、自分はまだまだ魅力的な人間ではないなぁと反省したことを今でも覚えています。カバヤホーム事業部のトップとして 41 棟だった棟数を 2 倍、3倍と順調に伸ばし、リーマンショックや増税など、荒波があったにもかかわらず順調に伸ばしていった。その時感じたことが、この労働集約産業というのは一人頭の生産性を変えずに人数を増やしていけば、おのずと売上・利益が増大していくものなんだけど、どうやったら一人頭の生産性が変わらずに拡大していくかが肝で、そのためにあらゆることに取り組み、工夫を重ねていった。その中でただ成長するだけではなく、社員が会社を誇りに思えるような心境にしたいと考え「朝起きたら行きたくなるような会社」を墓標するようになりました。
あと、学びとしては、今JGBA(一般社団法人 日本優良ビルダー普及協会)の会長をやっているんでますが、この団体は小さい工務店でも、大手と伍して戦っていけるようなノウハウを日本全国の工務店さんと共有し、住宅業界が発展していけばいいなと考えています。いろいろな社長さんに会って感じることは、大体の人が30代、40代、50代前半の社長さんが多く、私が逆に多くの刺激を受けさせてもらっています。理事の人数も増えていき、昔は新築にまつわる話がほぼほぼ全部だったけど、今は、リフォームとか土地活用、相続、エネルギー活用など研修内容が多岐に広がっていき、この業界に必要な団体になってきたなぁと実感しています。やはり我々は自分の会社の業績のみならず、業界全体が盛り上がっていき、一大経済圏を作ることが目標でもあるので、これからも進めていきたいと考えています。
日々変化を遂げられておられるということですね。現在の貴社の事業についてお伺いします。
窪田さん 7年前に作った中経で、既存事業、成長事業、新規事業の3つの事業に大きく分けています。既存事業は注文住宅です。成長事業はその当時もあったリフォームや外構エクステリアや不動産事業です。
新規事業というのは、特建事業とFC事業、そして、海外事業の3つです。新規事業の中の特建事業は、今年岡山市役所の180 億の建て替え工事を大成さんと組んで受注獲得することができ、岡山のゼネコン業界がざわついています。その1ヵ月前に美咲町の町役場の建て替え工事の 18 億超も受注していて、今岡山県では、カバヤがどんどん公共事業をとっていますから、住宅事業だけではなく特建事業でも存在感を示しています。2017 年から始めた特建事業は従来の鉄骨造や RC造だけではなく CLT を中心とした ”木造ゼネコン”を墓標して いて、今期は 25億の売り上げまでになりました。来期以降も手持ち工事をたくさん抱えているので、将来は 100 億を目指したいと思います。
CLT を中心とした FC事業も全国の加盟店が50社を超えてきていて、最近加盟店さんがスターバックスの店舗を建てたり、大宮市の駅前に6階建てのCLTのビルをハイブリットで建てるように関東やあちこちで案件が増えています。あと 1 年で累計 100 社の加盟を目指して邁進しています。
加盟店さんが実案件でしっかりと仕事をしていかないと、本部も成長できないですものね。
窪田さん あと、海外事業に関してですが、2022 年3月に、ベトナムのハノイにCLT と木造のハイブリッド住宅である 3 階建てのベトナムハウスを建てました。そもそも僕は5年前にダナンやホーチミンの会社をCLTの材料を持って10社ほど回って売り込んでみたのですが、以前乃村さんがシリコンバレーに行ってつまみ出されたような同じ扱いを受けてしまったんですよね。(笑)
誰からも相手にされなくて、「こんな木なんて腐るよ、弱いよ」とか言われて、なにくそと絶対にやったろうと思い外務省に行って、JETROの
ハノイ支社長を紹介してもらい、そして 2022 年 11 月に建設省の局長さんと出会うことができました。日本の木造金物工法は本当に素晴らしい工法で、ベトナムの風土にも必ずや貢献できる工法です。熱く語って局長さんも理解を示してくれ、一緒に木造建築を普及していきましょうという言葉を言っていただけました。そして下部団体である科学技術局の敷地内に木造でレストランを作る話を持ち掛けられました。今回もこれからもこういう案件に対応するべく「日本木造建築海外推進協議会」という団体を設立するイメージで、うち一社で取り組むのではなく、日本の優秀な木造金物工法を世界に発信していくため、オールジャパンで世界に広めていきたいと考えています。
住宅業界というのは内需産業の典型のように思われがちですが、すばらしい技術なので、海外に持っていけば必ず喜ばれる工法だと考えています。グローバルな世の中なのでいろんな住宅会社が、海外売上比率〇%って言えるような世界になればいいなぁと夢見ています。
国内の話に戻りますが、同業他社さんは、当然ながら日本国内にたくさんおられますが、窪田社長が経営において大切にされている考え方や軸があれば教えていただけたらと思います。